Talking New York --- New Yorkで見つけた英語

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エリス島は「希望の島」であると同時に「涙の島」でもあった。

ニューヨーク、自由の女神の立つリバティー島からマンハッタンに帰るフェリーは、エリス島に寄港します。ここには、1892年から「アメリカ合衆国移民局」が置かれ、自由の女神に歓迎されて自由の国アメリカにやってきた移民は、まずここで入国審査を受けなければなりませんでした。エリス島は"Island of Hope"(希望の島)と呼ばれていました。しかし、移民希望者の2%ほどは入国を認められず、本国へ送り返されました。また、一時的に拘留されたりすることもありました。そうしたことから、"Island of Tears"(涙の島)とも呼ばれていました。
移民博物館の2Fは、エリス島にたどりついてから、合衆国移民局の中で起こったことが写真や、実際の申請書などとともに解説されています。その中で、"Temporarily Detained" (一時的拘束)の解説がありました。



During the peak years of immigration, detentions on Ellis Island ran as high as 20% for all immigrants inspected. A detainee's stay could last days or even weeks.   Many were women and children waiting for a relative, or for money to arrive so they could purchase tickets to their destinations.  Others were waiting for a hearing before a Board of Special Inquiry or for a final decision from Washington, D.C.  Perhaps the most poignant of the detainees were families waiting for a sick parent or child to be released from the Ellis Island hospital.
移民の数が最高潮であった年、エリス島に拘束された数も検査を受けた全ての移民の20%に達しました。移民の拘束は何日も、時には何週間も続くことがありました。多くが親戚の人や切符を買って目的地に行くためのお金が届くのを待つ女性と子供でした。
そのほか、特別な聞き取り調査委員会の前の面接を待っていたり、ワシントンD.C.からの最終決定を待っている者もいました。多分拘束された者の中で一番苦悩していたのは、病気の親や子供がエリス島の病院から退院するのを待つ家族でした。



次の写真では、実際使用された金網の向こうに、心配そうに見つめる家族の姿がありました。



父親を拘束されてしまった、7歳の女の子の証言です。



"Papa had been notified...to come to New York. I have a vivid memory of seeing him holding us by the hands through an iron fence. He was not permitted in the room with us. With tears running down his cheeks, he asked me [at seven years of age] to take care of the children as best I could."
Martha Knaupp Kohlroser, a German immigrant in 1927, from letter, 1985.


「パパはニューヨークに行くよう通知されていました。私はパパが鉄のフェンス越しに私たちの手を握っている姿を鮮明に覚えています。パパは私たちと一緒にその部屋にいることを許可されなかったのです。パパの頬に涙が流れ、私にできるだけ子供たちの面倒を見るように頼んだのです。(当時私は7歳でした。)」
マーサ・ノープ・コールロザー
1927年のドイツ移民の手紙より(1985年)


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